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 1 諸岡邸赤レンガ門塀について

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赤レンガ門の前で 昭和初め頃​  門に立つのは諸岡良佐氏

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竜ケ崎駅近くにあった頃の赤レンガ門塀とその前庭 八間道路から見た景観

 龍ヶ崎の駅からほど近い場所に、諸岡良佐氏が居を構えたのは、明治43年(1910)3月。高松での検事正を辞して故郷 龍ケ崎の発展につくす志で帰郷。自邸のために用意した約2千坪以上の敷地に、まず赤レンガの門と塀をめぐらしました。全長100メートル。珍しい赤レンガの建造物を当時の人々は驚きを持って眺めたそうです。

 赤レンガの建造物として有名な東京駅が、大正3年に開業したことを思えば、それより早く、地方都市・龍ケ崎で時代の先端を行く赤レンガ門塀が姿を現したわけで、評判を呼んだことが頷けます。こうして赤レンガ門塀は龍ヶ崎市のシンボル的な存在として、人々に愛されてきました。 

         諸岡良佐氏の実業家、また竜ヶ崎町長としての経歴の

            詳細はHP最初のページ下記の「保存記録誌」を参照

  諸岡邸の赤レンガ門塀は、関東大震災にも耐え、約100年間、堅牢に立ち続けました。昭和50年に住人が転出した後も30年間、諸岡邸はそのままの姿で立ち続けました。 

 持ち主の諸岡良彦氏が移転先の東京から訪れては、維持管理に努められたお陰と言えます。しかし無人の住居ゆえの心配ごとも多く「家屋の整理を考えざるを得なくなった」と家屋と共に解体を決定。

 その報を受け、長く市民の愛着の対象でもあり、近代化の遺産でもある「赤レンガ門塀」を残そうと市民有志による「諸岡邸赤レンガ門塀保存実行委員会」を発足、保存へのスタートを切りました。

 現地保存は無理となり、2006年秋、移築復元を目指し解体保存を行い、市内の別な場所に保管しました。

 当会が中心となり募金活動を継続、更に、「(公財)東日本鉄道文化財団地方文化事業支援」また龍ケ崎市の市民協働事業提案に応募し採択され、9年後の2015年、市有地である旧竜ケ崎小学校跡地、上町4247-1に移築復元をおこない保存工事が竣工しました。

 

​ *会の名称は諸岡氏より「諸岡家のモニュメント的な残し方はしないで

 欲しい」という要望を受けて途中から「赤レンガ保存実行委員会」に変更

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​旧諸岡邸 門から和風家屋を見る

​移築前 現地で 赤レンガのある風景

​諸岡邸赤レンガ門塀の特徴

​下図にポイントを当てると特徴の説明があります。

 2 登録文化財申請書・所見 全文

            所      見

                     かすみがうら市文化財保護審議会委員

                               神 戸 信 俊

1 旧諸岡邸煉瓦門柱及び塀保存の経緯

 江戸時代この地は、仙台藩伊達領であり、豊かな穀倉地帯であった。明治22年町村制施行により竜ケ崎町となり、近隣農村や千葉県などを商圏とした、県南の中心都市として栄えた。

 旧諸岡邸は、龍ケ崎市の旧市内、関東鉄道竜ヶ崎駅に近い寺後にあり、町長を務めた諸岡良佐が明治43年(1910)、7000㎡の敷地に建築した。煉瓦の門・塀はその時に建てられたものである。

 

 住宅は、在来木造工法の伝統的和風住宅であったが、門扉・塀は、煉瓦の洋風意匠の造りであった。昭和40年代に住宅は、当主の転居などにより空き家となり、平成18年(2006)敷地の別途利用のため解体された。解体と前後して市民から、煉瓦の門・塀も貴重な文化遺産であり、保存すべきとの声が上がり、有志(赤レンガ保存実行委員会)が中心となり市民からの寄金を募り、移築復元を目指し解体保存された。

 

 その後も寄金は継続された。更に、「(公財)東日本鉄道文化財団地方文化事業支援」並びに龍ケ崎市の補助金を受けて、9年後の平成27年(2015)、市有地である旧竜ケ崎小学校跡地、龍ケ崎市上町4247-1に移築復元され保存工事が竣工した。

2 名称・建築年

・名称 通称「れんがもん」と呼ばれた。本申請では「旧諸岡邸煉瓦門柱及び塀」とする

・建築年 明治43年(1910)である。

3 構造・意匠等

・門柱及び塀正面見付け長さ  17216㎜(以下数値は㎜)

・構造  門柱、塀共に煉瓦造 内部空隙コンクリート充填

・意匠等

  門柱(主柱)組積法 

     柱頭:イギリス積み 

     柱幹部:イギリス積み 

     柱脚:イギリ積み

     寸法 高さ:3828 

        断面寸法:柱頭 790×790 柱幹部555×555

             柱脚 666×666

        目地:覆輪目地

 

  脇柱  組積法 

     柱頭:イギリス積み 

     柱幹部:フランドル積み 

     柱脚:イギリス積み

     寸法 高さ:2897 断面寸法:柱頭666×666 柱幹部445×445

     柱脚 560×560

     目地:覆輪目地

 

  塀  組積法 イギリス積み

     寸法 高さ:2187 巾:頭部(笠木)363 塀363 脚部500

     目地:平目地

  

※ 建築当初この門には、主門、脇門共に鉄製(鍛造製)の門扉が設けられていたが、第2次世界大戦の際、政府の金属供出命令(戦時供出)により取り外され、失われた。昭和戦後には、鉄扉に代わり木扉の時期もあったが、解体時にはそれも失われていた。今日門柱には、在りし日の鉄扉の名残を留める肘壺の受け金具が残されている。

 

4 まとめ

 明治政府は、国造りの基本に近代化を掲げ、その規範を西欧に求めた。それは政治・経済・教育から科学技術等、あらゆる分野に及んだ。建築の分野では、英国からJosia Konderを教師として招聘し、日本人の建築教育に当たらせた。

 

 その中から辰野金吾や片山東熊など、日本近代建築黎明期の建築家が排出された。辰野は東京駅や日本銀行、片山は東宮御所(赤坂離宮)を、Konder本人は、ニコライ堂や鹿鳴館を手がけた。西欧の意匠を範とした建物は近代化の象徴として、中央政府役所・高等教育施設・生産施設、その他財閥や元勲の邸宅などにも取り入れられた。

 

  この流れはやがて、明治後半から大正、昭和戦前にかけて地方にも及ぶことになる。この地では、旧龍ケ崎町役場、旧制龍ケ崎中学校講堂、旧龍ケ崎警察署、常陽銀行などがその例であるが、現存しない。

 

 また同時に、建築・土木分野の素材にも、煉瓦・鉄・コンクリ-ト・ガラス等が導入され、近代化を象徴する材料となった。当初これらは、英国などからの舶載品も多かった。

 

 国内での煉瓦製産は、幕末の安政5年(1855)長崎の海軍伝習所で行われたのが初めてと言われる。明治になり、需要の増大に伴い、堺や北海道など各地で煉瓦が生産され、同時に生産技術の向上も図られた。東京駅建設などのため、渋沢栄一が深谷に煉瓦工場を造ったのもこの時期である。

 この地域では、小規模ではあるが、旧水海道市の五木宗(登録文化財 五木田)など数か所で煉瓦の生産が始まった。

 

この様な状況の中、旧諸岡家の煉瓦造の門柱と塀は、地方の有力者の邸宅の外構に洋風意匠と材料が取り入れられた一例である。

 個人が建てた煉瓦造の門柱・塀の例では、規模は勿論のこと、特に門柱の意匠の秀逸さは県内に比肩できる例は無い。上野の旧東京音楽学校(現東京芸術大学)の煉瓦の門と比較しても、その価値は大きい。

 

なお、門柱の目地には、覆輪目地が施されている。近年修理復元された東京駅の煉瓦目地が覆輪目地であり話題になったが、本申請「旧諸岡邸煉瓦門柱及び塀」は、東京駅に先立つこと4年前の建築である。この煉瓦造門柱及び塀は、明治の近代化政策が、建築において地方に波及する様子を示す例として貴重な文化財遺構である。

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